家庭と言うのは、節度がないともたない場所なんです。家族がエゴを剥き出しにしたら、あんな狭いところじゃ息苦しくって生きていけない。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P62
家族での対話の基本と言うのは、「お腹減ってる? ご飯あるよ」とか、「お風呂入る? 沸いてるよ」とか、「眠い? お布団干しておいたよ」とか、そういう生理的な快の提供と不快の除去というところにあると思うんです。それがクリアーできたら、家庭としてはもう上等ですよ。それなしでは人間が生きてゆけない最低限の欲求があって、それを家族のメンバーが提供する。その対応関係がきちんとしていれば家族は基本的にはオッケーなんです。そういうことがきちんとできてから、もっと複雑な家庭関係に進めばいい。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P60
ディベートなんて、コミュニケーション能力の育成にとっては最低の教育法だと思いますよ。こっちから半分の人はこの論点に賛成、こっちから半分の人は反対の立場から発言してくださいなんていうことをやったら、出来合いのストック・フレーズをどこかから借りてくるしかない。それをただ大きな声でうるさく言い立てれば、相手は黙る。そんなくだらない世間知を身に付けたって、何にもならない。そんなことを何百時間やっても、自分の中にある「いまだ言葉にならざる思い」とか「輪郭の定かならぬ感情の断片」を言葉にする力なんか育つはずがない。もっと大切なことがあると思うんです。まず思いが上手く言葉にならないで、ぐずぐず堂々巡りをする子に、「それでいいんだよ」と言って承認してあげること。
あと、矛盾するようですけれど、それと同時に、どこかでその終わりなき呟きを断念することも教えないといけない。100%ピュアな、言葉と思いがぴったりと合致した理想的なコミュ二ケーションなんてありえない、ということも教えてあげないといけない。もうこれ以上適切な言い方は見つけられそうもない、この辺で手を打とうという断念も、やっぱりコミニュケーションにおいては必要なんです。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P55
公の場と私の場というのは、外形的な条件で決められるんじゃなくて、微妙な人間関係の綾を感知して、同じ場所で、同じ人間が相手の場合でも、「あ、いま公共的な局面になったから、ぴしっとしないと」とか、「いまは私的な場だから、ダラダラしてもいいんだ」というような使い分けというか、見きわめというか、そういうことができることが社会的能力として要請されていたと思うんですよ。「公私の別をわきまえる」というのは、同じ人間が同じ場所にいても、関係のかたちが変わることがあるということを理解しているということじゃないですか。自分の私的な感覚みたいなものをずるっと出しちゃいけない局面というのをちゃんとわきまえているという。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P43
「政治の季節」の人々は次のように推論することになる。
1・自分のような人間はこの世に二人といない。
2・この世に自分が果たすべき仕事、自分以外の誰によっても代替し得ないようなミッションがあるはずである。
3・自分がそのミッションを果たさなければ、世界はそれが「あるべき姿」とは違うものになる。
こういう考え方をすることは決して悪いことではない。それは若者たちに自分の存在根拠についての確信を与えるし、成熟への強い動機づけを提供する。
その逆を考えればわかる。
1・この世には私のような人間は掃いて捨てるほどいる。
2・私が果たさなければならないミッションなど存在しないし、私の到来を待望している人たちもいない。
3・だから、私が何をしようとしまいと、世界は少しも変わらない。
このように推論する人のことを「非政治的な人」と私は呼ぶ。
--内田樹「政治の季節」
マルクスの用語として人口に膾炙するに至った「プロレタリア」というのは古代ローマにおいて「自分の子ども以外に資産を持たなかった最下層の民(Proles)」に由来する造語です。最下層の民でも「自分の子どもは持っていた」のです。ですから、「いまのような就労条件では、結婚もできないし、子どもを産み育てることもできない」と嘆いている日本の若い労働者たちは「プロレタリア」以下の、「完全に無資産的な存在」(それを指す用語さえまだ存在しない存在)だということになります。
--内田樹「若者よマルクスを読もうⅡ」P200
「類的存在」とは自己利益を追求するのと同じ熱意をもって公共の福利を気づかう人間のことです。そのような人間はさしあたり想像上の存在に過ぎず、事実上は存在しません。革命闘争や独立戦争のさなかに「英雄的市民」というかたちにおいて一過的に存在したことはあったでしょうが、安定的・恒常的に存在したことはありません。これから存在することになるかどうかもわからない。無理かも知れない(なんとなく無理そうです)。でも、人間が理想としてめざすべきなのはそのような人間ではないか。マルクスはそう考えました。
--内田樹「若者よマルクスを読もうⅡ」P122
一時期流行した「自己実現」論とか、「自分探し」なども、生きることの満足をもっぱら自己の変革のみに見出すという点で、社会をかえて満足を高めることを忘れさせるものだったように思います。人生は気の持ちようとか、個人のがんばり次第と、個人の内側ばかりに目を向けさせて、社会の仕組みには目を向けさせない。これはこれである種のイデオロギー攻撃ですね。
--石川康宏「若者よマルクスを読もうⅡ」P60
「自分らしさ」というのは要するにどういう商品を選択するかによって決定されるという物語を日本人みんなが信じ込まされていたわけですから。そういうふうに消費者として生きることをあらゆる社会活動の軸に据えることによって、バブル期の日本においては、市場のビックバンと家族共同体の解体が同時進行した。
--内田樹「若者よマルクスを読もうⅡ」P54
大量生産、大量流通、大量消費、大量廃棄という資本主義のシステムを活発に回すためには、どうしても消費単位の分断が必要になってくる。だから、共同体の解体が官民あげてのキャンペーンで進められた。これはことの筋目としては当たり前のことなんです。四人家族がばらばらになれば、住む部屋は四箇所いるし、冷蔵庫も四台いるし、テレビも四台いる。電話だって一家に一台が一人携帯一台になることで通信市場は劇的な拡大を遂げた。共同体の解体すなわち消費市場のビックバンなんです。共同体が解体すると、必要なものは誰も貸してくれない。誰とも共有できない。だから、いるものは全てワンセットそろえなければならない。
コピーライターの糸井重里さんが作った西武百貨店の広告に、「ほしいものが、ほしいわ」というのがありましたね(1988年)。あれは身体的なベースでの消費要求というものがなくなったことの表現ですよね。衣食住の基本的なニーズが満たされた。これからあと何のために消費したらよいのか、わからない。少なくとも身体的な欲求はもう充足された。あとは商品に対する幻想的な欲望を喚起する以外に経済成長しないという現実を活写した名コピーだったと思います。そして象徴的なのは、その糸井さんが、同時期に書いた小説のタイトルが『家族解散』だということです。
これは消費活動の軸足を身体的な欲求から幻想的な欲望に移すためには家族共同体が邪魔になったと言う日本社会の消息を見事に伝えていると思います。
--内田樹「若者よマルクスを読もうⅡ」P52