経済学者ケネス・E・ボールディングはかつて「指数関数的な成長が、有限な世界において永遠に続くと信じているのは、正気を失っている人か、経済学者か、どちらかだ」と述べたとされる。それから半世紀以上がたち、環境危機がこれほど深刻化しても、まだ私たちはひたすら経済成長を追い求め、地球を破壊している。経済学者的な思考は、それほど深く、日常に根づいてしまっているのだ。私たちは「正気を失っている」のかもしれない。
--斎藤幸平「人新世の資本論」P38
戦後の欧米の福祉国家とは、「過激化する労働運動」という資本にとっての危機を食い止め、懐柔するための手段であった。つまり、福祉国家は労働者中心の社会が組織されていくことを防ぐための方策でした。だからこそ、資本と妥協することにいつも前向きな巨大労組が福祉国家に欠かせない要素として存在していたのです。
--マイケル・ハート「未来への大分岐」P23
M・マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』を読むと、国と国との大戦争が起こって本格的な大量殺戮が起こるようになったのが17世紀くらい。それは地図というものが作られだして、みんなが地図を持つようになった時期と重なるっていうんです。
その前は、王様が丘の上に立ったら見渡す限りが自分の土地で、いろんな農作物があって、「ああ、すごい」と思えた。ところがそれを地図で見ると、「なんだ、うちの王様の土地はこれだけか」とか、「グレートブリテンの中のたったこれだけか」となってしまう。「隣の国の領地はこんなにある」って、どんどんヴァーチャルになっていく。実際に地図を見たときに喚起される攻撃性って、普段の百倍ぐらいに膨らんでいるかもしれない。
--名越康文「14歳の子を持つ親たちへ」P110
「自分らしさ」というのは要するにどういう商品を選択するかによって決定されるという物語を日本人みんなが信じ込まされていたわけですから。そういうふうに消費者として生きることをあらゆる社会活動の軸に据えることによって、バブル期の日本においては、市場のビックバンと家族共同体の解体が同時進行した。
--内田樹「若者よマルクスを読もうⅡ」P54
大量生産、大量流通、大量消費、大量廃棄という資本主義のシステムを活発に回すためには、どうしても消費単位の分断が必要になってくる。だから、共同体の解体が官民あげてのキャンペーンで進められた。これはことの筋目としては当たり前のことなんです。四人家族がばらばらになれば、住む部屋は四箇所いるし、冷蔵庫も四台いるし、テレビも四台いる。電話だって一家に一台が一人携帯一台になることで通信市場は劇的な拡大を遂げた。共同体の解体すなわち消費市場のビックバンなんです。共同体が解体すると、必要なものは誰も貸してくれない。誰とも共有できない。だから、いるものは全てワンセットそろえなければならない。
コピーライターの糸井重里さんが作った西武百貨店の広告に、「ほしいものが、ほしいわ」というのがありましたね(1988年)。あれは身体的なベースでの消費要求というものがなくなったことの表現ですよね。衣食住の基本的なニーズが満たされた。これからあと何のために消費したらよいのか、わからない。少なくとも身体的な欲求はもう充足された。あとは商品に対する幻想的な欲望を喚起する以外に経済成長しないという現実を活写した名コピーだったと思います。そして象徴的なのは、その糸井さんが、同時期に書いた小説のタイトルが『家族解散』だということです。
これは消費活動の軸足を身体的な欲求から幻想的な欲望に移すためには家族共同体が邪魔になったと言う日本社会の消息を見事に伝えていると思います。
--内田樹「若者よマルクスを読もうⅡ」P52
EU諸国は今、自分たちのめざす経済社会を「社会的市場経済」と呼んで、アメリカのような新自由主義型の経済を「野蛮な資本主義」と否定していますが(日本の「構造改革」はアメリカ型をめざすものです)、その辺にもマルクスの思想はひと役買っていると思います。
--石川康宏「若者よマルクスを読もうⅡ」P36
朝鮮戦争によって、アメリカはソ連、中国と対決姿勢を強めることになり、日本はアジア、太平洋地域における共産勢力との戦いの最前線に位置づけられた。民主化と非武装化の占領政策から一転して、日本は再軍備させられ、米軍に協力して「反共防波堤」の役割を担わされることになった。アメリカは反共主義者のA級戦犯を政界に復帰させ、傀儡にして日本を操ろうとした。また、反共政策への協力と引き換えに、東南アジアや韓国に対する日本の賠償責任はなし崩しになった。こうした事態を指して、「読売新聞」は「逆コース」と書いた。占領時代が終わっても、危機として占領政策の継続を望む者たちが政権中枢に居座る結果を招いた。かくて、日本はアメリカに国を売る者たちの居心地が最もいい国となったのだった。
--島田雅彦「人類最年長」P199