子どもの喜びっていうのは大人に敬意を払われた、大人に一目置かせた、という経験なんですよ。人は愛のみによって生きるにあらず。愛だけではダメ。敬意が必要なんです。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P71
子どもの喜びっていうのは大人に敬意を払われた、大人に一目置かせた、という経験なんですよ。人は愛のみによって生きるにあらず。愛だけではダメ。敬意が必要なんです。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P71
「やればできる」って死語にしたいね(笑)。子どもに対して使ってはいけない言葉ってあるけど、その一つがこれ。逆でしょ。「あ、できたね」「え、何が?」でしょう、正しい順序は。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P70
子どもって、年長者でかつ社会的にある程度承認されている人から承認されるっていう形でしか自己掌握できないから。大人による承認が不可欠なんですよ、子どもには。自分が尊敬している人からきちんと評価されると、すごく大きな自信になる。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P70
家族での対話の基本と言うのは、「お腹減ってる? ご飯あるよ」とか、「お風呂入る? 沸いてるよ」とか、「眠い? お布団干しておいたよ」とか、そういう生理的な快の提供と不快の除去というところにあると思うんです。それがクリアーできたら、家庭としてはもう上等ですよ。それなしでは人間が生きてゆけない最低限の欲求があって、それを家族のメンバーが提供する。その対応関係がきちんとしていれば家族は基本的にはオッケーなんです。そういうことがきちんとできてから、もっと複雑な家庭関係に進めばいい。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P60
ディベートなんて、コミュニケーション能力の育成にとっては最低の教育法だと思いますよ。こっちから半分の人はこの論点に賛成、こっちから半分の人は反対の立場から発言してくださいなんていうことをやったら、出来合いのストック・フレーズをどこかから借りてくるしかない。それをただ大きな声でうるさく言い立てれば、相手は黙る。そんなくだらない世間知を身に付けたって、何にもならない。そんなことを何百時間やっても、自分の中にある「いまだ言葉にならざる思い」とか「輪郭の定かならぬ感情の断片」を言葉にする力なんか育つはずがない。もっと大切なことがあると思うんです。まず思いが上手く言葉にならないで、ぐずぐず堂々巡りをする子に、「それでいいんだよ」と言って承認してあげること。
あと、矛盾するようですけれど、それと同時に、どこかでその終わりなき呟きを断念することも教えないといけない。100%ピュアな、言葉と思いがぴったりと合致した理想的なコミュ二ケーションなんてありえない、ということも教えてあげないといけない。もうこれ以上適切な言い方は見つけられそうもない、この辺で手を打とうという断念も、やっぱりコミニュケーションにおいては必要なんです。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P55
自分の子どもがノイジーなメッセージを発信しても、「要するにあんたは、こう言いたいわけね」っていうふうに、端数を切り捨てて、整合的だけど限定的に「理解」してしまう。子どもが発するメッセージの中には、まだ輪郭の整わない、子ども自身も自分が何を言いたいのかわからないような、雑多なざわめきがたくさん含まれているんです。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P50
子どもは色々とシグナルを発信しているのに、母親がそれをほとんどシステマティックに無視する。でも、その子の中の「承認可能な部分」についてだけは、反応する。成績がいいとか、スポーツがうまいとか。でも、子どもが弱っていたり、苦しんでいたりすることを伝えるシグナルには反応しない。そういうメッセージは母親の子育ての失敗に対する言外の非難を含んでいるから。そういう受信したくないシグナルだけは選択的に無視する。自分が許容可能なメッセージだけ受診する。都合の悪いシグナルは自動的にただの「ノイズ」に変換されてしまって、もう人間の「声」としては耳に届かない。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P46
公の場と私の場というのは、外形的な条件で決められるんじゃなくて、微妙な人間関係の綾を感知して、同じ場所で、同じ人間が相手の場合でも、「あ、いま公共的な局面になったから、ぴしっとしないと」とか、「いまは私的な場だから、ダラダラしてもいいんだ」というような使い分けというか、見きわめというか、そういうことができることが社会的能力として要請されていたと思うんですよ。「公私の別をわきまえる」というのは、同じ人間が同じ場所にいても、関係のかたちが変わることがあるということを理解しているということじゃないですか。自分の私的な感覚みたいなものをずるっと出しちゃいけない局面というのをちゃんとわきまえているという。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P43
受け身であり続けていた自分が初めて、誰かに、誰かの人生を変えるほどのものを与えることができる。この地球上に、俺にしかできない価値があることが少なくとも一つはあるのだと思うと、もう惨めな気分は消えていた。
--高橋健太郎「ヘッドフォン・ガール」P286