強者によって奴隷の地位に落とされるということはよくあることで
--内田樹「街場の戦争論」P102
強者によって奴隷の地位に落とされるということはよくあることで
--内田樹「街場の戦争論」P102
人間って、ある程度の期間が過ぎると、良い仕組みであっても、
--内田樹「世界「最終」戦争論」P229
一方が正しくて、他は間違っているというのではなくて、
--内田樹「世界「最終」戦争論」P206
炭坑節は、昔、田端義夫が歌っていた「十九の春」
過酷な石炭採掘に駆り出された労働者の序列を見てみると、
--姜尚中「世界「最終」戦争論」P136
自国の犯した失敗を数え上げて、
--内田樹「世界「最終」戦争論」P44
単一の仮説が勝利して、それが信仰箇条となるより、集団内に様々な仮説が対話しながら併存していることで、集団としての叡智が機能するなら、それが一番いいかたちだと僕は思います。
--内田樹「日本戦後史論」p83
自分がやっていることを支える価値観が正しいと思い始めたとたんに、手段を正当化してしまう。そうするから、行動原理が暴走してしまうのです。自分の思っていることを、あまり正しいと思い詰めないことです。それより、手段が正しいかどうかについて、議論をすべきです。
--孫崎享「いま語らなければならない戦前史の真相」P252
人間の欲望というものは、強弱や濃淡はあっても、誰にでも同じように潜んでいるものです。人間が社会生活を営むことができるのは、この欲望を騙し騙し使うということを覚えたからではないでしょうか。規矩とは、己の内部の正義や倫理の名前ではなく、己の欲望に対して自らその使用を禁じるということに他なりません。
なぜ、それを禁じるのか。おそらくは、自分で自分をリスペクトしたいという、次元の異なる欲望があるからです。自分が何を得たかということよりは、自分が何を断念できたかということの中に自分へのリスペクトは生まれます。断念によってしか獲得できない境地、というものがあるということです。
大人になるとは、そういうことです。
--平川克美「路地裏の資本主義」P63
道徳というのは別に「こういうふうにふるまうことが道徳的です」というリストがあって、それに従うことではありません。そう考えている人がほとんどですけれど、まったく違います。道徳というのは、何十年、何百年という長い時間のスパンの中にわが身を置いて、自分がなすべきことを考えるという思考習慣のことです。
--内田樹「天皇制についてのインタビュー」
18世紀の近代市民社会論では、「自分さえよければそれでいい」という考え方を全員がすると社会は「万人の万人に対する戦い」となり、かえって自己利益を安定的に確保できない。だから、私権の制限を受け入れ、私利の追求を自制して、「公共の福利」を配慮した方が確実に私権・私利を守れるのだ、という説明がなされます。「自己利益の追求を第一に考える人間は、その利己心ゆえに、自己利益の追求を控えて、公的権力に私権を委譲することに同意する」というロジックです。「真に利己的な人間は非利己的にふるまう」というわけです。
--内田樹「天皇制についてのインタビュー」