キリスト教だってイスラム教だって世界平和を願っておる。戦争したり、差別しろとは言ってない。真理はひとつだ。しかし、仏教の良いところは『無我』、『我がない』ということだ。自分がないと言うことではない、自分よりも相手の気持ちを思うことだ。自分がお腹空いていて、困っている人がいたら食べさせる。
--佐々井秀嶺「佐々井秀嶺、インドに笑う」P238
キリスト教だってイスラム教だって世界平和を願っておる。戦争したり、差別しろとは言ってない。真理はひとつだ。しかし、仏教の良いところは『無我』、『我がない』ということだ。自分がないと言うことではない、自分よりも相手の気持ちを思うことだ。自分がお腹空いていて、困っている人がいたら食べさせる。
--佐々井秀嶺「佐々井秀嶺、インドに笑う」P238
1637年、日本では島原の乱が起こりました。徳川政権は一揆の手強さに戦慄を覚えます。キリスト教を信仰した人は、こんなに強くなれるのかと。そこで幕府は鎖国政策を一層強めると同時に、宗門改(しゅうもんあらため)という制度を設けました。いわば、日本版の異端審問制です。
全国の住民を檀家制度によって人(すなわち土地)に縛りつけ、毎年一回、彼らがキリシタンでないことを寺院に申告させました。そのかわり、檀家となった地域住民の冠婚葬祭はすべて寺院がやることになりました。つまり、寺院は信者を増やすための布教活動やらなくても、宗門改と冠婚葬祭をやっていればご飯が食べられるようになったのです。宗教の本質は布教にありますが、日本中の人間はすべてどこかの檀家になっていますから、布教をしたくてもできません。
宗門改により、日本の仏教は必然的に葬式仏教になっていきました。
--出口治明「全世界史(下)」P149
1583年、女真族のヌルハチが、マンジュ国を中国東北地方に建国しました。女真族は、かつて宋を滅ぼした金を作った民族です。ヌルハチの一族はチベット仏教、中でも文殊菩薩を信じていました。それでヌルハチの国は文殊の国と呼ばれました。このモンジュが訛ってマンジュ、そして満州となったのです。
--出口治明「全世界史(下)」P85
(1578年、北元のアルタンがチベット仏教の高僧にダライ・ラマの称号を与えた)
ダライ・ラマとは「大海のような深い知恵を持つ師」という意味です。ここに今日まで続くダライ・ラマ制度が誕生しました。なお、なぜ「三世」であるかというと、スーナム・ギャッツォがアルタンに対して、「私の前にすでに、立派な僧が二人いましたから、私は三世を名乗らせていただきます」と言ったからです。一世と二世は追贈されたので、チベットのダライ・ラマは、三世が始祖ということになります。
--出口治明「全世界史(下)」P80
キスワとは、イスラムの聖地マッカのカアバ神殿にかけられる布です。現在では黒い巨大な布がかかっています。昔はラクダの隊列で交易する商人たちがお祭りでマッカに集まり、歌を布に書いてカアバ神殿に吊るして優劣を競い合っていました。それが、やがて歳月が流れると、このカアバ神殿にかける布、キスワを寄贈できる人がイスラムの盟主であるという伝統が生まれます。これを決定的にしたのがバイバルスでした。
今日、カーバ神殿のキスワを誰が奉じているかといえば、サウジアラビアの国王です。
--出口治明「全世界史(上)」P373
一人ひとりの信者は、自分ひとりのこととして告白するわけですが、みんなの告白を統計的に分析すると、その村や都市や国全体で、何が起こっているかがよくわかってきます。君主の評判はいいのか、領主はいい政治をしているのか。つまり耳聴告白を集大成すれば、高度なスパイ網として機能するのです。ローマ教会は、この制度を活用します。豊富な情報を手に入れることで、ローマ教会の政治力は飛躍的に向上しました。
--出口治明「全世界史(上)」P336
戦前は、天皇に忠誠を誓うのが「正しい」ことだった。戦後はそれが否定され、高度経済成長期には、豊かになることが「正しい」とされた。きっと、いまも、なにか「正しい」ことがあって、それに、みんな従うのだろう。
「正しい」ことは時代によって異なるが、弱々しい「自分の考え」より、みんなが支持する「正しい」考えが優先される社会のあり方は変わらない。だとするなら、麻原を処刑しても社会は、自分とそっくりな、自分を絶対正しいと主張する別の麻原を生み続けるような気がするのである。
--高橋源一郎「歩きながら、考える」
啓蒙思想家と、それをさらに推し進めたマルクスのユダヤ人解放論のいずれもが「ユダヤ人(という被差別者)の解放」ではなく、むしろ「ユダヤ人(という悪夢)からの解放」という文型をもって語られたということである。 「迫害」とか「解放」といった語を、軽々に用いることを私たちは自制しなければならない。
--内田樹「私家版・ユダヤ文化論」P35
宗教の世界には自他の対立はなく、安息が得られる。
岡潔「数学する人生」(情緒とはなにか)P180