条約締結交渉にあたって決定的な重要性を帯びたのは、日米のどちらが米軍の駐留を希望するのか、という点であった。無論、「希望」を先に述べた側が、交渉における主導権を相手に譲ることとなる。したがって、外務省・吉田首相は、朝鮮半島情勢の切迫を背景に、米国にとっても軍の日本駐留が死活的利害であることを十分に認識し、「五分五分の論理」を主張する準備と気構えを持っていた。しかし、この立場が結局放棄されるのは、昭和天皇が時に吉田やマッカーサーを飛び越してまで、米軍の日本駐留継続の「希望」を訴えかけたことによる、と豊下は言う。その結果、一九五一年の安保条約は、「ダレスの最大の獲得目標であった「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を、文字通り米側に“保障”した条約」として結ばれることとなる。また、これらの過程で、沖縄の要塞化、つまりかの地を再び捨て石とすることも決定されていった。「要するに、天皇にとって安保体制こそが戦後の「国体」として位置づけられたはずなのである」。そしてこのとき、永続敗戦は「戦後の国体」そのものとなった。
--白井聡「永続敗戦論 戦後日本の核心」P169