男と女って平均寿命が十歳近く違うじゃないですか。何でかって言うと、女の人は自分で晩御飯を作るからだって。買い物行って、「今日何食べたいかしら」で自分の腹に訊いて、「私今日これ食べたい」て言うものを買って作って、子供と旦那はそれを食べる。自分が食べたい物を、食べたい調理法で、食べたい味付けで、食べたい量を食べるということを30年、40年やっていると10年間の差が出ると。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P123
男と女って平均寿命が十歳近く違うじゃないですか。何でかって言うと、女の人は自分で晩御飯を作るからだって。買い物行って、「今日何食べたいかしら」で自分の腹に訊いて、「私今日これ食べたい」て言うものを買って作って、子供と旦那はそれを食べる。自分が食べたい物を、食べたい調理法で、食べたい味付けで、食べたい量を食べるということを30年、40年やっていると10年間の差が出ると。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P123
今の女の人の感受性が鈍っている原因の一つに、ダイエットがあると思うんです。「あれが食べたい」っていうのは、必ず身体の中からの欲求があるわけだけども、ダイエットって一日のカロリーを最初に決めてしまうでしょ。つまり、脳が決めているわけです。ということは、自分の身体の中から出てくる「このビタミンが欲しい」、「このミネラルが欲しい」っていうシグナルを全部シャットアウトしないとダイエットって成立しないんです。自分の身体から発信されるそういう微妙な信号を聞かない習慣をつけたら、身体感覚が鈍くなりますよ。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P122
家族での対話の基本と言うのは、「お腹減ってる? ご飯あるよ」とか、「お風呂入る? 沸いてるよ」とか、「眠い? お布団干しておいたよ」とか、そういう生理的な快の提供と不快の除去というところにあると思うんです。それがクリアーできたら、家庭としてはもう上等ですよ。それなしでは人間が生きてゆけない最低限の欲求があって、それを家族のメンバーが提供する。その対応関係がきちんとしていれば家族は基本的にはオッケーなんです。そういうことがきちんとできてから、もっと複雑な家庭関係に進めばいい。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P60
公の場と私の場というのは、外形的な条件で決められるんじゃなくて、微妙な人間関係の綾を感知して、同じ場所で、同じ人間が相手の場合でも、「あ、いま公共的な局面になったから、ぴしっとしないと」とか、「いまは私的な場だから、ダラダラしてもいいんだ」というような使い分けというか、見きわめというか、そういうことができることが社会的能力として要請されていたと思うんですよ。「公私の別をわきまえる」というのは、同じ人間が同じ場所にいても、関係のかたちが変わることがあるということを理解しているということじゃないですか。自分の私的な感覚みたいなものをずるっと出しちゃいけない局面というのをちゃんとわきまえているという。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P43
受け身であり続けていた自分が初めて、誰かに、誰かの人生を変えるほどのものを与えることができる。この地球上に、俺にしかできない価値があることが少なくとも一つはあるのだと思うと、もう惨めな気分は消えていた。
--高橋健太郎「ヘッドフォン・ガール」P286
「政治の季節」の人々は次のように推論することになる。
1・自分のような人間はこの世に二人といない。
2・この世に自分が果たすべき仕事、自分以外の誰によっても代替し得ないようなミッションがあるはずである。
3・自分がそのミッションを果たさなければ、世界はそれが「あるべき姿」とは違うものになる。
こういう考え方をすることは決して悪いことではない。それは若者たちに自分の存在根拠についての確信を与えるし、成熟への強い動機づけを提供する。
その逆を考えればわかる。
1・この世には私のような人間は掃いて捨てるほどいる。
2・私が果たさなければならないミッションなど存在しないし、私の到来を待望している人たちもいない。
3・だから、私が何をしようとしまいと、世界は少しも変わらない。
このように推論する人のことを「非政治的な人」と私は呼ぶ。
--内田樹「政治の季節」
「類的存在」とは自己利益を追求するのと同じ熱意をもって公共の福利を気づかう人間のことです。そのような人間はさしあたり想像上の存在に過ぎず、事実上は存在しません。革命闘争や独立戦争のさなかに「英雄的市民」というかたちにおいて一過的に存在したことはあったでしょうが、安定的・恒常的に存在したことはありません。これから存在することになるかどうかもわからない。無理かも知れない(なんとなく無理そうです)。でも、人間が理想としてめざすべきなのはそのような人間ではないか。マルクスはそう考えました。
--内田樹「若者よマルクスを読もうⅡ」P122
「自分らしさ」というのは要するにどういう商品を選択するかによって決定されるという物語を日本人みんなが信じ込まされていたわけですから。そういうふうに消費者として生きることをあらゆる社会活動の軸に据えることによって、バブル期の日本においては、市場のビックバンと家族共同体の解体が同時進行した。
--内田樹「若者よマルクスを読もうⅡ」P54
今日学生に話したことの中でいちばんおぼえててほしいのは「機嫌よく生きよう」ということかな。街でも電車でも毎朝つまんなそうな暗い顔した大人たちが無言で押し合いながら歩いてるこの国では、自分だけでも楽しく機嫌よく生きていくことが何よりのレジスタンスなのだ
--ヲノサトル Tweet(2019/4/25)