1956年に、サンフランシスコ講和条約に調印しなかったソ連と、日本政府は日ソ共同宣言を出して、国交を回復させた。けれどそのさい、日本側は賠償請求権を放棄させられた。いわば日本は、この件ではサンフランシスコ講和条約アジア諸国が強要されたことを、自国があじわう結果になったわけだ。
その後元シベリア抑留者たちの一部は、強制労働への補償と謝罪を要求してきた。しかし冷戦時代には、ソ連と日本は対立関係にあったから、そうした要求は非現実的だとみなされてきた。しかし日本政府は、冷戦が終わった1991年になって国際情勢が変わると、こういう表明を出した。それは1956年に放棄したのは国家間の賠償請求権であって、「国民個人からの請求権まで放棄したのではない」というものだった。
つまり日本政府は、アジアの民間からの補償要求には「国家間では解決済み」といいながら、自国民が被害を被ったシベリア抑留では、「国民個人の請求権は放棄していない」と表明したわけだ。こんな態度は、ご都合主義といわれてもやむをえない。アジア各地から補償要求をしている人たちからは、「それなら、日本政府の言い分どおり国家間では賠償問題は解決済みだとしても、われわれ個人の補償請求権は認めるべきだ」といわれてもしかたがないといえる。
小熊英二「日本という国」P154