「自分にとっては快楽であるが、相手にとっては迷惑なこと」を選択的に相手に向かってするばかりか、その迷惑に相手が耐えることを「愛の証」だと信じている人がいる。それは話が逆である。「愛する」というのは「相手の努力で私が快適になる」ような人間関係ではなく、「私の努力で相手が快適になる」ような人間関係を築くことなのである。それ以外のどのような人間関係も「愛」という言葉には値しない。
--内田樹「子どもは判ってくれない」P145