モレス公爵(1858-96)
フランス王家とスペイン貴族の血を引き、教皇およびイタリア王より贈られた爵位を継承。
イエズス会の学校で初等教育を受けた後に、サン・シールの陸軍士官学校に進む。
陸軍を除隊し、1882年にカンヌでニューヨークのドイツ系銀行家の娘メドラ・フォン・ホフマンと結婚。
妻の祖国アメリカにわたり、ノース・ダコタのBad Landsに牧畜王国を築き、その収益でフランス王党派に財政援助を行うという壮大な計画を立てる。
東海岸屈指の富豪であった義父からの経済的支援を受けて西部開拓事業に乗り出す。
宏大な土地を買い入れ、妻の名を取ったメドラという街を建設。そこの事業の中心として、牧畜、食肉業、冷凍牛肉輸入会社を設立。並行して鉄道、金融、倉庫事業にも進出。
しかし、最初の華やかな成功の後、事業はすべて失敗。わずか3年で破産し、すべての事業から撤退。
1886年にアメリカを後にする。以降も生涯ソンブレロをかぶり続け、愛用のリボルバーを手放さなかった。
いったん祖国フランスに帰った後、オルレアン公とともにインドシナで虎狩りに興じ、そこでインドシナ半島での鉄道敷設のビジネスを思いつく。資金集め、植民地官僚への根回しも済ませ周到な準備をしたが、植民地官僚が本国の政変によって召喚されてしまい、この事業も破綻。再び帰国。
1889年の代議士選挙で反体制派(ブーランジズム)を応援するため湯水のように金を使う。その際、選挙運動にリボルバーを携行して、威嚇を行ったかどで逮捕される。
ブーランジズムと袂を分かちアナーキズムに接近。1990年5月1日のメーデーに4万人の失業者を組織した一大示威集会を企画するも「争乱、殺人、略奪、武装蜂起教唆」の罪で3か月投獄される。スキャンダルもあり、10月に出獄したときにはモレス公爵を迎え入れる政治組織はなかった。
そこで1891年に自己資金と個人的人脈で個人的な「突撃隊」であるモレス盟友団を結成。世界最初のファシスト武装組織の誕生となる。その活動は情宣活動にとどまらず、「勇敢な街頭闘争、ユダヤ教儀礼への乱入、反ユダヤ主義集会における反対派への恫喝」などで、団員にはソンブレロと紫色のカウボーイ・シャツを制服として着ることを厳命した。
1992年には幾度かの決闘で軍人を相手に襲うべき勇猛さを発揮し名を挙げるが、贈賄スキャンダルで政界復帰の芽を摘まれる。
フランスに見切りをつけアフリカにわたり、英国との植民地争奪戦に身を投じ、英雄的な業績を挙げることで名声を奪還しようとこころみる。
モレスは2年にわたる現地探検ののち、95年に資金援助を求めて一時帰国するも、投資者は見つからず、96年に失意のうちにアフリカに戻り、「英国との個人的な戦争」に身を投じる。
同年6月9日、サハラを南下する旅の途中、同行の現地人の裏切りに遭い殺害される。その際4人を道連れにしている。
享年38歳。
参考:内田樹「私家版・ユダヤ文化論」第三章 反ユダヤの生理と病理