そこなんですよ、大事なのは。「身体は子供なんだけども」、「丸顔の中学生のくせに」と言うところ。その乖離の苦しさだけなんですよ。そこにズレがあるということを誰かにわかってもらえれば、「ズレで苦しんでいる自分」というものがもう一つ上の次元に繰り上がって、それ自体が考察や記述の対象になるでしょう。
そのときまでは、「ヴァーチャルな僕」と「生身の僕」が分裂しているわけですよね。文字を書いているのは「ヴァーチャルに大人になっている僕」だから、まわりの愚鈍な人間たちへの憎悪や軽蔑はあっても、自分が「現にまだ子どもであることの苦しみ」は言葉にできない。でも、自分と同じような種類の乖離に苦しんでいる友達に出会うと、「乖離と言う現象そのもの」を記述したり、考察したり、あるいは笑ったり……と言うことが可能になる。そのとき、「乖離という現象そのもの」について語っている「僕」は、もう「ヴァーチャルな僕」でも「生身の僕」でもないわけですよね。「第三の僕」がそこに出現する。中立的な語り手というか、第三者というか、一歩距離を置いて「僕を眺めている」語り手が。
そうなると、丸顔の中学生であるところの自分にもうまくなじめるというか、許せるわけですよね。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P152
十歳から十一、二歳。つまり本格的に異性と付き合う勇気は全然持てなくて、一時的に同性愛的な感じになって、すごく深い友情を同性同士でむつみ合う時期があるじゃないですか。これ、チャム世代って言うんです。チャムっていうのは子犬同士がじゃれあうこと言うんですけど。
思春期心理学的な考え方では、この時期を十全に経ないと次のほんとの思春期を迎えられないとも言われています。だからほんとに大事なのは思春期じゃなくて前思春期じゃないかと考える人もいるぐらいなんです。
--名越康文「14歳の子を持つ親たちへ」 P89
子どもって、年長者でかつ社会的にある程度承認されている人から承認されるっていう形でしか自己掌握できないから。大人による承認が不可欠なんですよ、子どもには。自分が尊敬している人からきちんと評価されると、すごく大きな自信になる。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P70
ディベートなんて、コミュニケーション能力の育成にとっては最低の教育法だと思いますよ。こっちから半分の人はこの論点に賛成、こっちから半分の人は反対の立場から発言してくださいなんていうことをやったら、出来合いのストック・フレーズをどこかから借りてくるしかない。それをただ大きな声でうるさく言い立てれば、相手は黙る。そんなくだらない世間知を身に付けたって、何にもならない。そんなことを何百時間やっても、自分の中にある「いまだ言葉にならざる思い」とか「輪郭の定かならぬ感情の断片」を言葉にする力なんか育つはずがない。もっと大切なことがあると思うんです。まず思いが上手く言葉にならないで、ぐずぐず堂々巡りをする子に、「それでいいんだよ」と言って承認してあげること。
あと、矛盾するようですけれど、それと同時に、どこかでその終わりなき呟きを断念することも教えないといけない。100%ピュアな、言葉と思いがぴったりと合致した理想的なコミュ二ケーションなんてありえない、ということも教えてあげないといけない。もうこれ以上適切な言い方は見つけられそうもない、この辺で手を打とうという断念も、やっぱりコミニュケーションにおいては必要なんです。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P55
公の場と私の場というのは、外形的な条件で決められるんじゃなくて、微妙な人間関係の綾を感知して、同じ場所で、同じ人間が相手の場合でも、「あ、いま公共的な局面になったから、ぴしっとしないと」とか、「いまは私的な場だから、ダラダラしてもいいんだ」というような使い分けというか、見きわめというか、そういうことができることが社会的能力として要請されていたと思うんですよ。「公私の別をわきまえる」というのは、同じ人間が同じ場所にいても、関係のかたちが変わることがあるということを理解しているということじゃないですか。自分の私的な感覚みたいなものをずるっと出しちゃいけない局面というのをちゃんとわきまえているという。
--内田樹「14歳の子を持つ親たちへ」P43
物神崇拝的倒錯の極限において、人間は自分が身体をもっていることそれ自体を重荷に感じ、不快に感じ、それからの脱却を求めるようになる。自分の身体を二束三文で叩き売ってもいいような気分になる。そうなんです。そうでなければ、あれほど身体に悪いことにアディクトしたり、身体に穴を開けたり、墨を入れたり、バイクで信号無視したりしません。あれは身体が暴走しているのではなくて、脳が全能感に酔い痴れて暴走し、身体を奴隷のようにこき使っているのです。
--内田樹「若者よマルクスを読もうⅡ」P193
一時期流行した「自己実現」論とか、「自分探し」なども、生きることの満足をもっぱら自己の変革のみに見出すという点で、社会をかえて満足を高めることを忘れさせるものだったように思います。人生は気の持ちようとか、個人のがんばり次第と、個人の内側ばかりに目を向けさせて、社会の仕組みには目を向けさせない。これはこれである種のイデオロギー攻撃ですね。
--石川康宏「若者よマルクスを読もうⅡ」P60