真に批評的なことばは対話的なものです。そこには「これから何を言おうとしているのかをまだ知らないで話し始める」人と、「これから何を聴き取ることになるのかまだわからないけれど、それが『私がまだ知らない私についての知』であることを直感している」人の二人が立ち会うことが必要です。その条件が満たされたときにのみ、批評は生成的なものになる。
--内田樹「態度が悪くてすみません ――内なる「他者」との出会い」まえがき
一義的に定義してから話を始めようというのは、本人は科学的態度だと思っているんだろうけれど、実際にはコミュニケーションを遮断する宣言なんだよ。
--内田樹「僕たちの居場所論」
ハラスメントって、実例を見ていると、相手から送られてくるメッセージをその多様な解釈可能性のうちで〝もっとも不愉快な意味で解釈する〟というかたちで起きているんだよ。だから、〝あなたは攻撃的な意図がなくその言葉を使ったというが、現に私はその言葉で深く傷ついた〟という文脈で告発がなされる。
性善説って、ある種、危険な説だと思う。自分の中に他人を抑圧したり、支配したりする欲望があるということを認めない人たちは、善意に基づいて人を傷つけることがあるという可能性をまったく吟味しないでしょう。 だから、〝いい人〟がふるう暴力性って、節度がないんだよ。信仰心の篤い人ほど残虐になるということは歴史的経験から熟知されていることだと思うんだけど。
ライバルは観察すべきだが、ライバルと同じことをしたくなる誘惑には、全力で逆らわなければならない。
デイヴィッド・ミーアマンスコット、ブライアン・ハリガン「グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ」P61
私たちは愛する人間に対してさらに強い愛を感じたいときに無意識の殺意との葛藤を要請するのである。葛藤がある方が、葛藤がないときよりも欲望が亢進するから。
--内田樹「私家版・ユダヤ文化論」P211
わたくしども日本人は揃いの衣装を身につけると、およそ3割方知能指数が低下することになっている。
--小田嶋隆「ア・ピース・オブ・警句」(「なめんな」と言われる立場になってみよ)
啓蒙思想家と、それをさらに推し進めたマルクスのユダヤ人解放論のいずれもが「ユダヤ人(という被差別者)の解放」ではなく、むしろ「ユダヤ人(という悪夢)からの解放」という文型をもって語られたということである。 「迫害」とか「解放」といった語を、軽々に用いることを私たちは自制しなければならない。
--内田樹「私家版・ユダヤ文化論」P35
何かやりたいこと、成し遂げたいことがあったら、一生それを思い続けなさい。それでダメだったら、二生目も、三生目も思い続けなさい。そうすれば、やがて必ず実ります
--岡潔「数学する人生」(新しい時代の読者に宛てて)P238
生きるということは、人が良く生きるうちに気がこもっているかどうか、それを生命と言うのだろう。
岡潔「数学する人生」数学と人生)P211