わたくしども日本人は揃いの衣装を身につけると、およそ3割方知能指数が低下することになっている。
--小田嶋隆「ア・ピース・オブ・警句」(「なめんな」と言われる立場になってみよ)
啓蒙思想家と、それをさらに推し進めたマルクスのユダヤ人解放論のいずれもが「ユダヤ人(という被差別者)の解放」ではなく、むしろ「ユダヤ人(という悪夢)からの解放」という文型をもって語られたということである。 「迫害」とか「解放」といった語を、軽々に用いることを私たちは自制しなければならない。
--内田樹「私家版・ユダヤ文化論」P35
わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっているのです。発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかるということです。
数学に限らず、情的にわかっているものを、知的にいい表そうとすることで、文化はできていく。
芸術も、やはり情的にわかっているものの表現です。芸術の場合、知的に表すだけではありませんが、やはり創造のはじめには、情的にわかっているものがある。
--岡潔「数学する人生」(最終講義)P38
変な話だけど、人間が評価されるのって尖ったところだよね。バランスのいい人で高く評価される人なんていないですよ。
--鈴木智雄「ニッポンの編曲家」P291
幼児虐待の悲惨な事例がしばしば報道されますけれど、あれだけ子供を残酷に扱えるのは、加害者たちが異常に暴力的であったからというよりはむしろ、「子どもというのは親にとって『不愉快なもの』である」という考えがこの親たちには刷り込まれていたからだと思います。
--内田樹「街場の文体論」P188
学ぶ機会をシステマティックに退ける人に階層上昇のチャンスは訪れません。「オレは知っている」「オレはできる」「オレは誰にもものを頼まない」「オレは誰にも頭を下げない」ということを生き方の規律にしている人はそうすることによって階層下位に自分を呪縛しているのです。
--内田樹「街場の文体論」P128
「知りません。教えてください。お願いします」。学びという営みを構成しているのは、ぎりぎりまで削ぎ落として言えば、この三つのセンテンスに集約されます。自分の無能の自覚、「メンター」を探り当てる力、「メンター」を「教える気」にさせる礼儀正しさ。その三つが整っていれば、人間は成長できる。一つでも欠けていれば、成長できない。
マジョリティが危ない方向に向かっているとき、生き延びるためには、みんなは「向こう」に行くけど、自分は「こっち」に行った方がいいような気がするという、おのれの直感に従うしかない。そういう危機に対する「センサー」を皆さんには身につけていただきたいとおもうんです。
--内田樹「街場の文体論」P36
五寸釘の寅吉や阿部定、そして三億円事件強奪犯人がいかに国民的英雄であっても、決して文化勲章を与えられないように、タテマエとしての社会通念は、犯罪と等しく娯楽を差別するのだ。芸術文化との間に、厳然と一線を画してしまう。川のむこう側にはインテリがいる、そしてこちら側には大衆がいる、アラカンが美空ひばりがいるのである。
竹中労「 鞍馬天狗のおじさんは」より
共同体というのは非対称の関係なんです。子どものときには親に育ててもらって、大人になったら若い人を育て、老人になったら介護してもらう。そういうふうに回り持ちなんです。いつも他者から支援されているか、支援しているか、どちらかであって、サービスと報酬が等価であるときって、実はいっときもないんです。
--内田樹「日本の文脈」P277