生徒が疑問を口にすると、先生たちが嬉しそうににっこり笑う。答えをくれる代わりに、その問いを気のすむまで追いかけなさいと応援される。友だち同士の喧嘩やいじめ、恋愛に家族、将来の夢・・・起こることに善悪はない。逃げずに向き合い、深く考え、自分だけの結論を出すプロセスにこそ価値がある。
--堤未果「社会の真実の見つけかた」P225
戦場で人を殺しても平気でいられるためには、冗談でも言って平静を保つしかない。
だから、帰国して冗談を言いあう相手がいなくなった途端、兵士たちは心が壊れてしまう。それが、“戦争”というものなのです。(『ワイアードニュース』2010年4月20日)
--堤未果「社会の真実の見つけかた」P154
民衆を受け身で従順にしておく賢い方法は、議論の枠組みを厳しく制限し、その枠組みの中で活発な議論を奨励することだ
--ノーム・チョムスキー
https://webronza.asahi.com/business/articles/2018111900011.html
植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。理由は簡単です。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有するからです。100%ネイティヴが勝つ。
--内田樹「外国語学習について」
無意味な制度に無批判に従える「無意味耐性の高い子ども」は大人にほめられる代償に自らの知性を棄てているのです。
--内田樹(2018年10月30日のTweet)
戦前は、天皇に忠誠を誓うのが「正しい」ことだった。戦後はそれが否定され、高度経済成長期には、豊かになることが「正しい」とされた。きっと、いまも、なにか「正しい」ことがあって、それに、みんな従うのだろう。
「正しい」ことは時代によって異なるが、弱々しい「自分の考え」より、みんなが支持する「正しい」考えが優先される社会のあり方は変わらない。だとするなら、麻原を処刑しても社会は、自分とそっくりな、自分を絶対正しいと主張する別の麻原を生み続けるような気がするのである。
--高橋源一郎「歩きながら、考える」
庄一郎さんを“記憶地獄”から解き放ち、末期がん患者を痛みから遠ざけ、死期間近の人に恐怖や苦痛をほとんど感じさせない認知症は、新たな可能性を秘めた“救い”という視点から見直せるかもしれない。それによって、死こそを救いとみなしてきた、いや、もっとはっきり言えば、死にしか救いはないと絶望してきた従来の敗北的な認知症観を、根底からくつがえせるのではなかろうか。
--野村進「解放老人」P131
米国の南北戦争は、奴隷解放運動だと美化されてきたが、実際は南部の綿花農場で働く者と北部で働く者を取り合う戦いだった。その上、奴隷を奴隷として使うのではなく、働き手と同時にモノを買う者として育てれば、資本家としては二重に美味しい。こうして、奴隷は「消費者」という名に置き換えられることになった。
--高城剛「多動日記(一)「健康と平和」-欧州編-」
物語の中にわざわざ政治家や大金持ちや有名人を登場人物として出してくるのはシステムが順調に機能してるときに偉そうにしてる人間はだいたい非常時には使いものにはならないということを人々に教えるためです。システム内部的な強者は、システムが機能停止したときには何の役にも立たない。むしろ、集団の機能妨害する。パニック「物語」は繰り返しそれを教えています。
--内田樹「街場の戦争論」P270
立法権を負託されたと行政府が自己判断し、立法府がこれまでのようにのろのろ合意形成をしていたのでは緊急時に対応できないという無能の判定を受け容れたときに独裁は開始される。行政府の全能化と立法府の無能化は表裏一体なのです。そして、合法的な緊急避難から超法規的独裁制への移行の間にデジタルな境界線はありません。気がついたら、なし崩し的に民主制が終わっていた。そういうものです。
--内田樹「街場の戦争論」P128