無意味な制度に無批判に従える「無意味耐性の高い子ども」は大人にほめられる代償に自らの知性を棄てているのです。
--内田樹(2018年10月30日のTweet)
池上六朗先生が前にこう言われてました。「悩み」というのは考えても解決がつかないこと、「問題」というのは具体的な解決の手順がわかっていること(でも、やるのはけっこうたいへん)。「悩み」を「問題」に変換するのが生きる要諦である、と。
よく「問題解決能力」という言い方をしますけれど、ほんとうはあれは「悩みを問題に変換する能力」のことなんだと思いますう。重大な問題はちょっと能力があったくらいでは解決しません。でも、「この方向でこつこつと努力を積み上げて行けばいつか解決する」という見通しを立てることならできる。
アントニオ猪木の名言に「ピンチというのは厄介ごとがダマになっている状態のことで、厄介ごとを一つ一つ解決してゆけばピンチは脱出できる」というものがあります。けだし名言。この「ピンチ」と「厄介ごと」は「悩み」と「問題」と同じことだと思います。
高校生たちが無力感に囚われるのは「悩み」と「問題」、「ピンチ」と「厄介ごと」を区別する仕方をまだ学んでいないからではないでしょうか。これ難しいんですよね。国際関係論では「危機」をdanger とriskに分類するそうですけれど、アイディアは同じですね。
--内田樹(2018年10月29日のTweet)
戦前は、天皇に忠誠を誓うのが「正しい」ことだった。戦後はそれが否定され、高度経済成長期には、豊かになることが「正しい」とされた。きっと、いまも、なにか「正しい」ことがあって、それに、みんな従うのだろう。
「正しい」ことは時代によって異なるが、弱々しい「自分の考え」より、みんなが支持する「正しい」考えが優先される社会のあり方は変わらない。だとするなら、麻原を処刑しても社会は、自分とそっくりな、自分を絶対正しいと主張する別の麻原を生み続けるような気がするのである。
--高橋源一郎「歩きながら、考える」
庄一郎さんを“記憶地獄”から解き放ち、末期がん患者を痛みから遠ざけ、死期間近の人に恐怖や苦痛をほとんど感じさせない認知症は、新たな可能性を秘めた“救い”という視点から見直せるかもしれない。それによって、死こそを救いとみなしてきた、いや、もっとはっきり言えば、死にしか救いはないと絶望してきた従来の敗北的な認知症観を、根底からくつがえせるのではなかろうか。
--野村進「解放老人」P131
孤独には毒が含まれている。一人でいると、自分の毒に当たってしまうので、誰かに中和してもらわなければならない。
--島田雅彦「カタストロフ・マニア」P73
悲観は終わりを早めるだけだが、楽観は何かを始める原動力になる。
--島田雅彦「カタストロフ・マニア」P39
米国の南北戦争は、奴隷解放運動だと美化されてきたが、実際は南部の綿花農場で働く者と北部で働く者を取り合う戦いだった。その上、奴隷を奴隷として使うのではなく、働き手と同時にモノを買う者として育てれば、資本家としては二重に美味しい。こうして、奴隷は「消費者」という名に置き換えられることになった。
--高城剛「多動日記(一)「健康と平和」-欧州編-」
「ジャズとは、連帯感を失うことなしに、個人の自由を発揚することのできる音楽である」
--デイヴ・ブルーベック「琉歌幻視行」竹中労 P327
人間が「落ち目」になるのは、単に金がないとか、健康状態が悪いというような理由からではない。これからどう生きれば(いいか)分からなくなった時に、人間は毒性の強い脱力感に囚われる。
--内田樹「平成が終わる」