欲望は模倣的であるからそもそもその起源は私のうちにはない。だから、それが充足されたからといって、「私の内部」に充足感がゆきわたるということも起こらない。模倣欲望の充足とは、欲望の対象が前景から後景に退き、意識されなくなるというだけのことである。私たちが欲望するものはすべて「それはもう欲しくなくなった」と言うだけのために欲望されているのである。
快楽はベクトルがそれとは逆を向いている。快楽の対象がたえず意識に前景化されていること、それ自体が快楽の目的である。快楽は何かの結果ではない。プロセスである。
快楽とは「快楽の追求」それ自体が十全な愉悦をもたらすようなもののことである。快楽を求める活動それ自体が快楽の完全な成就であるような活動が「自分にとって」何であるかを言える人間を、私たちは「快楽の尺度」を持っている人間と呼ぶ。快楽と欲望の充足を取り違えている人間にはおそらく快楽は訪れない。
--内田樹「子どもは判ってくれない」P94