「子どもと密着している母親が厳しく社会的な価値観を教え込み」「子どもに干渉しない父親が無原則に甘やかす」という逆パターンがたぶん子どもにとっての地獄なんじゃないかと思うんです。
--内田樹「身体知 - 身体が教えてくれること
若い人には自分探しなんてしてもしょうがないよ、探しても何もないから、と言います。関係性のなかでつくられているあなたが、あなたなのだから。いまじゃない私なんていないんだと思うんですよ。
--三砂ちづる「身体知 - 身体が教えてくれること」より
学ぶ力には三つの条件があります。第一は自分自身に対する不全感。自分が非力で、無知で、まだまだ多くのものが欠けている。だから、この欠如を埋めなくてはならないという飢餓感を持つこと。第二は、その欠如を埋めてくれる「メンター(先達)」を探し当てられる能力。メンターは身近な人でもいいし、外国人でも、故人でも、本や映画の中の人でもいい。生涯にわたる師でなく、ただある場所から別の場所に案内してくれるだけの「渡し守」のような人でもいい。自分を一歩先に連れて行ってくれる人はすべてたいせつなメンターです。第三が、オープンマインド。人をして「教える気にさせる」力です。素直さと言ってもいいし、もっと平たく「愛嬌」と言ってもいい。この三つの条件をまとめると、「学びたいことがあります。教えて下さい。お願いします」という文になります。これが「学びのマジックワード」です。--内田樹「仕事力について」
「仕事をする」というのは「手持ちの貨幣で商品を買う」ことではありません。それはむしろ、自分がいったい何を持っているのかを発見するプロセスなのです。
内田樹「仕事力について」
自分がなりたい仕事と、他人から見た向き不向きが違うことはよくあるものです。
そういうときには両方やって、両方の修練をすればいいと僕は思います。一方が陰になれば、もう一方が陽になり、逆に、一方を表にしたら、もう一方は裏にまわすような修練の仕方をすればいいのです。そうすれば、どちらになるにしろ必ず役に立つはずです。
吉本隆明「真贋」
そういう(犯罪を犯した)子どもの親は、大体が世間の人と一緒になってわが子を、あの子はこういう子だった、あの子は昔から性格が変わっていて、と非難することが多いような気がします。でも、それはおかしい、ちょっと納得できない、僕はそういう考え方です。僕はすべて、親のせいではないかと思うわけです。それを世間と一緒になって子どもを非難してどうするんだと思います。
(TVについて) 映画でもネットでも自分からアクセスしてる時点でエネルギーを使っているし、目的意識のせいで満足度も変わってくる。つまり衝撃度が減るんですよね。急に出会ったほうがインパクトは強いから。
倉本美津留(TVBros. インタビュー)
人々は「あなたには無限の可能性がある」と持ち上げられる一方で、社会的にはさっぱり評価されない。(中略)この高すぎる自己評価と低すぎる外部評価の落差を埋めるために、多くの人々が呪いの言葉に手を出すようになる。他人が傷つくさまや他人の評価が下がるのを見ることで、溜飲を下げる。でも、一度その方向に踏み出すと、もう止まることができなくなります。
内田樹「呪いの時代に」
結局、人を動かすのは勝手な感謝なのかもしれません。
伊藤隆行「伊藤Pのモヤモヤ仕事術」
あからさまな強制は、それに屈服した人たちに「説得力のある言い訳」を用意してくれる。その「安心」が人を蝕む。
内田樹「多数派であることのリスクについて」