偽善者とは自分に課す基準と他人に課す基準が違う人のことだ ノーム・チョムスキー「知の逆転」
子供は、うまくいかないことがあると、全世界が自分を拒んでいるような気になるでしょう。確かに、全世界は基本的にうまくいってない。まちがったまま運営されている。でも、そこで怒るのか滅入るのか。それとも笑うのかで、生き方は大きくちがってくると思うんです。
町田康「人生を歩け!」
貧しいっていうのはさ、お金がないことじゃない。お金の前でよろめいてしまうことだと思うよ。
内田樹 「どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?」
心が平安でなく、「自分は悪い子なのではないか」と内心で怯えている人は、外部からの「評価」という名の脅迫に弱い。自分が悪い子ではない、ということを誰かに確認してもらわないと、恐ろしくてたまらないからである。かくしてそういう人は、善悪の判断基準を外部に求め、それに従って思考し、行動することになる。しかし、他人の視線のなかで、他人の地平をスムーズに生きるとき、人は決して平安を見いだすことができない。なぜなら平安とは自分で感じるものであって、人に与えてもらえるものではないからである。
--安冨 歩「マイケル・ジャクソンの思想」
「わかりにくいことを言うやつっちゅうのは、結局は偽者やねん。無から有を生みだす仕事をしてる人間は、まわりくどい思考をしてる暇がないんや。具体的で普遍的なことしか役に立たんちゅうことを知ってるからや。」
-- 宮本輝「にぎやかな天地」
「悲惨ななかにも光明ありやがな。そういうときに生まれてくる子ォは、ぎょうさんの幸運を握りしめてるでェ」
「私」を閉じたシステムとして、閉鎖的で線形的な系として考えている限り、異質なものはひたすら不快なものであり、排除すべきものです。そういう自我中心的な発想を棄てない限り、学びもコミュニケーションも成立しない。
-- 内田樹「身体知-身体が教えてくれること」
若い人には自分探しなんてしてもしょうがないよ、探しても何もないから、と言います。関係性のなかでつくられているあなたが、あなたなのだから。いまじゃない私なんていないんだと思うんですよ。
--三砂ちづる「身体知 - 身体が教えてくれること」より
学ぶ力には三つの条件があります。第一は自分自身に対する不全感。自分が非力で、無知で、まだまだ多くのものが欠けている。だから、この欠如を埋めなくてはならないという飢餓感を持つこと。第二は、その欠如を埋めてくれる「メンター(先達)」を探し当てられる能力。メンターは身近な人でもいいし、外国人でも、故人でも、本や映画の中の人でもいい。生涯にわたる師でなく、ただある場所から別の場所に案内してくれるだけの「渡し守」のような人でもいい。自分を一歩先に連れて行ってくれる人はすべてたいせつなメンターです。第三が、オープンマインド。人をして「教える気にさせる」力です。素直さと言ってもいいし、もっと平たく「愛嬌」と言ってもいい。この三つの条件をまとめると、「学びたいことがあります。教えて下さい。お願いします」という文になります。これが「学びのマジックワード」です。--内田樹「仕事力について」